よこみち



画家の運命 2010/01/15(金)
私にとっての永島慎二先生
2010/01/01(金)
影をもとめて 2009/12/13(日)
わたしの版画のススメ 2009/12/01(火)

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画家の運命

 不遇な画家の心のなかにはゴッホシンドロームと云うものがあるらしい。所謂、死後の名声に期待すると云うことである。
 日本の画家の場合で言うと、近年では日本画の田中一村や洋画の高島野十郎を思いうかべる。もっと近いところでは洋画の石田徹也、犬塚勉であろうか。併し、石田にしろ犬塚にしろ生前まるで無名で、誰からも顧みられぬ存在であったかと云うと、そうでもない。実際、現代にあっては余程のアウトサイダー的な画家でないかぎり誰からも知られていない画家と云う状態はありえない。とくに今の時代は、誰でも手軽にパソコンでインターネットに繋いで自作の絵画を発表できる。有名になるかどうかは別にしても少数であろうがひと目にふれてしまう。であるから、無名でいられるには余程の努力と胆力がいることになる。

 画家が職業として成立する確率はきわめて低い。古今東西の美術史を閲しても、あのファン・レイク・レンブラントですら晩年は悲しく破産していることを思うと、画家の状態でいようとすることは困難を極めるようだ。
 また、破産するどころか、生前絵は売れず成功もせずに貧窮のうちに命を落としたり自殺した画家の名をあげればきりがないほどである。
 現代でも画家として世に出ていても食えていないことは往々にしてある。絵画が簡単に売れないことを考えれば殆どの画家は絵を売って食っていないと言ってもいい。では、どうやって画家は食っているのかと言うと、たとえば画家本人に潤沢な資産があるか、または他人からの援助がある場合か、公的な機関からの援助がある場合と云うことになる。そして、画家自身が絵画制作以外のことで金銭を得る場合もある。併し、画家が画業以外で画家の時間をつかった場合、それはもはや画家であって画家でない状態と思われる。
 私の場合で言うと、私の画家としての運命は1983年頃からのポール・セザンヌ、エドワード・マネ、クロード・モネの印象派絵画の模写油絵制作からはじまり、1987年頃には美術史を書きかえるような新たな油絵制作は自分には出来ないと挫折してやめてしまったことが序章であった。
 そして、いつしか私はさまざまな私的な理由から、私の画家としての新機軸は書物の形体をもった表現であると思い込んでいった。

 版画家の池田満寿夫の存在を詳しく知ったのは1984年頃の20才のときだった。
 それまで私は池田満寿夫とは小説で芥川賞をとった人物であると云うことしか知らず、たしか版画家でもあった、と云うおぼろげなものでしかなかった。併し、池田満寿夫の銅版画を見たことは私にとって人生の転機になった。とくに20代の無名だった池田が自ら銅版画を印刷し、安価ではあったが、それを売って飯を食っていたと云うエピソードは刺激的であった。私も池田のように飯を食いたいと云う一念で無理算段して5万円のエッチングプレス機を買ったのである。併し、当時時給650円のアルバイトの生活で、切り詰めた中から捻出した5万円であったが、どうしてもうまく銅版画を製版して印刷することができず、結局1年程プレス機を押入れのなかに放置することになってしまった。併し、諦めきれずに、また銅版画を製版し印刷をして、併し、やはりうまくゆかずに挫折して、を繰り返していった。どうにか妥協できる銅版画をつくれるようになったのはプレス機を購入してから2年以上が経過していた頃であった。

 銅版画で、まだ誰もやったことのない、まったく新しい技法を、ひそかに私は案出したと思った。実際、新発明だ! 新機軸だ! と思ったのである。はずかしい話、歴史に、美術史に名前が残ると思った。併し、苦労してあみ出したと思い込んでいた技法は50年以上まえに版画家の長谷川潔に幾度もためされ名作までのこっていた。ただ私が無知であっただけで、無駄に苦労して同じ轍を踏んでいただけであった。

 21、22才であったか、私はその当時、下北沢に在った或る居酒屋にアルバイト店員として勤め、そして、辞めていた。
 私の新機軸の銅版画を、その居酒屋に持参した詳しい経緯はわすれたが、その時、私はその日の飯代にも窮する生活をしていたから、ただ遊びがてら行ったけではなかった。また、居酒屋に居た若いアルバイト店員たちとも気心が知れた関係と云うのでもなかったから銅版画が売れると思ったとも思えない。いや、私は懐に100円もなく逼迫してたから、もしや、売れはしまいかと思ったのだろう。
 併し、どう云う風の吹きまわしか、若いアルバイト店員たちに1枚300円で2枚売れたのであった。まったく、おどろいた。激越に嬉しさがこみ上げてきた。私にとっては、私の絵画が売れた最初であった。
 それは、たしかに記念すべき最初の出来事であった。併し、銅版画を買った若いアルバイト店員は私の目の前で、こともあろうか銅版画を壁に押しあて、画鋲でじかにとめたのであった。
 居酒屋の油じみた壁にいつまで私の銅版画が貼られていたのか判らない。売れたことは記念すべきことであったが屈辱的な気分に襲われることが多い。
 併し、事実はもっと過酷で、冷笑的に棄てられたように扱われた銅版画で得た金で私は飯を喰ったのである。20年以上まえのことであるが昨日のことのように覚えている。下北沢に在った松屋で400円のレバニラ炒め定食の味はまことに複雑な味であった。たしかに飯は美味かったが、しばし咽喉をとおらぬようでもあった。これが自分の思いをぶつけた絵画を描き、その絵を売って他人から金銭を取って飯を喰うことなんだと思った

 
Date: 2010/01/15(金)

私にとっての永島慎二先生

 私にとっての永島漫画は、私が8歳の昭和47年(1972年)まで遡る。
 昭和47年と言えば田中角栄首相が日中国交正常化を実現してパンダブームが起きた年であった。また、この年にグァム島のジャングルから28年間隠れていた元日本軍兵士の横井庄一軍曹が発見されたりもした。まだまだ戦後の匂いをのこした時代に私は永島慎二氏の漫画を知ったのであったが、その人生最初の永島漫画が双葉社刊行の「若者たち」であった。
 その頃の、私の数少ない蔵書は、赤塚不二夫の「マンガ入門」や貝塚ひろしの「烈風」、横山光輝の「伊賀の影丸」、長谷川町子の「サザエさん」、田河水泡の「のらくろ」、園山俊二の「ギャートルズ」、川崎のぼる、梶原一騎の「巨人の星」などで、そこに少年向け漫画とは異質な永島慎二氏の「若者たち」が加わったのである。
 もっとも、この「若者たち」は当時20才であった私の叔父にあたる人が私の家に置いていったもので、私がお金をだして買ったものではなかった。
 当時8才の私は「若者たち」のページをひらいて驚いたものであった。1ページ、2ページと、ページをめくって読んでいってぜんぜん面白くない。わからない。描かれている世界がぜんぜん理解できないのであった。これが私の永島漫画の最初の体験で、小学生にはわからないのは当然で、まだまだ私は子どもであったのである。その「若者たち」は10年近く押入れのなかに放置され読まれることはなかった。

 漫画「フーテン」をはじめて読んだのは20才をこえていて、たぶん23、4才ではないかと思う。この頃、私は三畳ひと間のアパートに居てつげ義春の漫画「隣りの女」を図書館で借り受けて読んでいた。「フーテン」と「隣りの女」の世界観を読み比べていった。
 併し、私の生活は永島氏の「フーテン」よりも、つげ義春氏の世界に近いような気がしていた。「フーテン」の世界は青春期を苦悩しながらも力強く進んでいるようであったが、私の生活が「フーテン」の世界のように力強くもなく非力でぐずぐずしていたから「フーテン」はまぶしすぎたようでもあった。
 或る日、20代の終り頃の私は夢をみた。夢に永島慎二氏が出てきたのであった。永島氏が出てくる夢をみたのは始めてのことであった。
 それは唐突で脈絡のない夢であったが、夢のなかで、私と永島氏は阿佐ヶ谷の住宅街にある暗渠の露地の上を歩いていて、永島氏は私にむかい「時間軸の云々・・・」と言われた。併し、夢はそれだけで終わり、その後、永島氏の夢をみることはなかった。
 1999年9月中旬頃に、突然、私は永島慎二氏に逢うことになった。その時、私は35才になっていた。
 永島氏の紹介者のH氏とH氏の知人N氏をはさんで氏と対面したが、私は永島氏の銅版画制作の手ほどきをすることになっていて、その日のうちに私のアパートの一室で銅版画の試作したのであった。私は緊張で身体がこわばり頬をひきつらせていたが、試作の2時間後にはどうにか役目を果たし終え、永島氏と共にH氏、N氏、私、妻とで5人連れ立って外で蕎麦を食べることになった。氏は蕎麦が好きなんですよと話され、日大二高通り沿いに在る蕎麦屋にむかった。
 その蕎麦屋へむかう道すがら氏は先頭に立ち、どんどん細い露地に入ってゆき、露地を歩きながら私にむかっていろいろと話をされた。そして、「・・・時間軸の云々・・・」と言われた。私はハッとして、氏の顔をみた。併し、氏は普通にされたまま話はつづき、そして、蕎麦屋に到着したのであった。
 このことを知っているのは私だけである。ひとに話しても信じて貰える話ではない。

 2002年の9月頃、永島氏は人工透析をする身体になられていて体力がめっきりなくなったと痩せられた身体で話されていた。
 その日、私は版画関係の話をしに西荻窪のご自宅に伺い、氏は私の顔を見るなり「映画を撮るって、どういうことですか?」と言われた。私はなんのことか判らず「さぁ、どういうことでしょうか?」と聞き返すことしかできなかった。その後、しばらくして氏はきまりのわるい顔をされて、この頃は、どうもボケてきたと笑いながら淋しそうに話された。
 永島慎二氏は2005年6月10日に逝去された。そして、2007年に漫画「黄色い涙」が犬童一心監督により映画化された。(
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Date: 2010/01/01(金)

影をもとめて

 私の漫画作品の発表場所はひとのうしろ姿を追うようにしてみつけていった。
 ひとのうしろ姿と云うのは、私が気にしている漫画家のことで、彼らが、どの雑誌に漫画を発表しているのか、これが気になっていた。
 私が気にしていた漫画家はおもに、つげ義春、つげ忠男、安部慎一、永島慎二で、かれらが発表していた雑誌に私も漫画を発表しようと思った。併し、彼らが活躍していた時代は20年も30年も昔で、今では発表していたガロ、COM、夜行、カスタムコミック、コミックばく等の雑誌は一誌も残さず廃刊になっていた。廃刊になっていたのでは仕方がない。雑誌の後継誌と思われるアックス、幻燈に投稿することになった。
 雑誌アックスでは、なんといっても池田ハル氏の存在が大きかった。その昔、池田ハル氏はアート的なイラストをTシャツや葉書にシルクスクリーン印刷したものを個展などで発表もしていた方で、美術家の小川てつオ氏ともつながりが深かった。
  池田氏が漫画を発表している雑誌ならば良いのではないかと思い、そこで私は生まれて始めて出版社に持ち込みをしてみた。アックス編集部には初めて描いた漫画「黒猫堂商店の一夜」を持ち込んだが、それが幸運にも新人賞の受賞となって雑誌掲載になった。
 また、私はある日にアックスで作品掲載していた河内遥氏が、雑誌幻燈に作品掲載しているのをみつけ、河内遥氏が載せている雑誌ならば良いのではないかと思い、幻燈編集部にとつぜん漫画原稿を送りつけてしまった。雑誌幻燈では原稿募集の呼びかけはしていなかったので、押しかけて行ったようなものであった。併し、これも運よく気に入られて雑誌の第9号に載せて貰えた。

 甲野酉氏の名前をはじめて目にしたのは、フリーペーパーの大河内アパート月報であった。このとき氏は4コマ漫画を掲載していて、私にとっては笑わせるためだけでない独特の味わいのある漫画は新鮮であった。
 その氏が漫画を掲載していた雑誌がコミックFantasy(同人誌)であった。私はこの雑誌にも投稿し、2作品が佳作となり、1作品が掲載となった。

 私が文化庁メディア芸術祭の存在を知ったのは、またもや池田ハル氏が関係していた。氏から送られてきた第11回文化庁メディア芸術祭の展覧会のおしらせのチラシは、私にはほんとうに驚きであった。氏は、そこで推薦作品に選ばれて展示されるということであった。・・・凄い!うらやましい! と思った。 なんと言っても「文化庁」の名称は大きかった。民間でなく行政である。燦然と輝いて他を圧倒しているように感じられた。
 ネットで芸術祭のサイトを検索してみると、アート、エンターテイメントの部門はよくわからなかったが、アニメ、マンガ部門では、世の中の有名実力作家が全員名を連ねているように見えて、ほんとうにびっくりしたものであった。・・・これは、ほんとうにコンクールなのか? と疑ったものである。つまり、受賞してあたりまえと思われる宮崎駿作品やガンダム作品が出品受賞しているのである。また漫画作品でも単行本化されてベストセラーを記録しているものも受賞している。
 これは、とんでもなく競争率の高いコンクールで、自主制作のカテゴリーとはいいながら池田ハル氏の名前が出ているのは凄いことだと思った。
 そして、その後、私の作品が第12回、13回の芸術祭で推薦作品に選ばれたのは、まさに奇跡のようであった。
 
 第12回にいがたマンガ大賞で、私の作品が最優秀作品賞、魔夜峰央賞に選ばれたのは漫画家しらいしみぐ氏の存在が大きかった。氏は商業漫画雑誌で4コマ漫画で活躍していたが、氏とは15年程まえ、ある知人を通じて知り合い、何度か酒を飲んだり、食事をしたりカラオケをしたりして遊んだ仲であった。
 ある日、その氏の名前をなにかのおりにネットで検索してみたことがあった。すると、にいがたマンガ大賞の名称と共に氏の名前が出てきたのである。そこでは氏は、ひとコマ漫画が入選していたのであった。
 そう云う検索をしてから1年程がすぎたある日、私は俄かに「にいがたマンガ大賞」を思いだした。併し、そのときは既に作品応募締切1週間前を切っていた。
 丁度そのとき私は出来上がった漫画原稿が出版社に売れずに困却していた。苦肉の策のように賞金欲しさも手伝って駆け込み出品してみたのである。
 念ずれば通じるのか、またしても運よく受賞となったのである。受賞作は「パラソルの微風」で、この作品には苦難の紆余曲折があり、ようやく公の場所に出られたのであった。


Date: 2009/12/13(日)

わたしの版画のススメ

 私の版画は簡単につくられる。
 こんなふうに言うと今まで随分と版画販売をしてきた手前具合がわるいのであるが、実際わたしの版画は簡単な技法でつくられている。つまり、従来の浮世絵版画や現代作家の版画にみられるようないくつもの色版を使用して何度も重ね摺りすることもなく、私の版画は学校版画インキと名うたれた中性の黒色(またはセピア色)で一回摺るだけである。
 それから版木を彫刻刀でほるときも、ことさら難しい技法では彫らない。カッターナイフと安価な丸刀、三角刀をつかうだけである。それに版木も加工のやさしいシナベニヤ板か桂、朴など安価なものをつかう。
 そして、手摺りにつかうバレンであるが、私の場合は、新宿にある世界堂で小学生が学校の授業のときにつかうスクールバレン(300円ほど)を愛用している。このバレンは、勿論版画職人がつかう物にくらべ話にならないほどの物で、摺り心地はきわめて悪い。これを使いこなすのは小学生にはとても無理な話で、併し、この誰でも使い勝手の悪いバレンを何故愛用しているのかと云うと、それは、ただ一点のみ。私はバレンの竹の皮の張り替えが苦手であると云うことにつきる。もっとも、出来の悪いバレンであれば張り替えも出来ないこともないが、やはりうまく張れないとスクールバレン以下になってしまうので、仕方なくスクールバレルをつかう仕儀となっている。
 また、私にはとても高価なバレンを使い捨てにすることはできなかった。私には潤沢な資金がないので仕方がない、いきおい私の版画は使用する道具類をみると小学生の図画の時間と大差のないもののようでもある。
 併し、小学生とちがう点もある。私の感性は小学生のようではなく、あと摺る用紙が、私の方は手漉きの楮和紙と云う点であろう。この点は小学生の図画の授業時間ではみられないものであると思われる。紙だけは金惜しみをせずに耐久性のある堅牢なものを選んでいる。またインクにしても安価ではあるが、これも一度ついたら二度と取れない種の物で1000年でも2000年でも発色して紙の寿命までもつだろう。
 私は、わたしの版画のススメとして、言いたいのは、案外簡単に安価に版画は誰にでもできると云うことである。感動は金をかけずにもつくれると云うことが言いたい。

Date: 2009/12/01(火)

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