私の漫画作品の発表場所はひとのうしろ姿を追うようにしてみつけていった。
ひとのうしろ姿と云うのは、私が気にしている漫画家のことで、彼らが、どの雑誌に漫画を発表しているのか、これが気になっていた。
私が気にしていた漫画家はおもに、つげ義春、つげ忠男、安部慎一、永島慎二で、かれらが発表していた雑誌に私も漫画を発表しようと思った。併し、彼らが活躍していた時代は20年も30年も昔で、今では発表していたガロ、COM、夜行、カスタムコミック、コミックばく等の雑誌は一誌も残さず廃刊になっていた。廃刊になっていたのでは仕方がない。雑誌の後継誌と思われるアックス、幻燈に投稿することになった。
雑誌アックスでは、なんといっても池田ハル氏の存在が大きかった。その昔、池田ハル氏はアート的なイラストをTシャツや葉書にシルクスクリーン印刷したものを個展などで発表もしていた方で、美術家の小川てつオ氏ともつながりが深かった。
池田氏が漫画を発表している雑誌ならば良いのではないかと思い、そこで私は生まれて始めて出版社に持ち込みをしてみた。アックス編集部には初めて描いた漫画「黒猫堂商店の一夜」を持ち込んだが、それが幸運にも新人賞の受賞となって雑誌掲載になった。
また、私はある日にアックスで作品掲載していた河内遥氏が、雑誌幻燈に作品掲載しているのをみつけ、河内遥氏が載せている雑誌ならば良いのではないかと思い、幻燈編集部にとつぜん漫画原稿を送りつけてしまった。雑誌幻燈では原稿募集の呼びかけはしていなかったので、押しかけて行ったようなものであった。併し、これも運よく気に入られて雑誌の第9号に載せて貰えた。
甲野酉氏の名前をはじめて目にしたのは、フリーペーパーの大河内アパート月報であった。このとき氏は4コマ漫画を掲載していて、私にとっては笑わせるためだけでない独特の味わいのある漫画は新鮮であった。
その氏が漫画を掲載していた雑誌がコミックFantasy(同人誌)であった。私はこの雑誌にも投稿し、2作品が佳作となり、1作品が掲載となった。
私が文化庁メディア芸術祭の存在を知ったのは、またもや池田ハル氏が関係していた。氏から送られてきた第11回文化庁メディア芸術祭の展覧会のおしらせのチラシは、私にはほんとうに驚きであった。氏は、そこで推薦作品に選ばれて展示されるということであった。・・・凄い!うらやましい! と思った。
なんと言っても「文化庁」の名称は大きかった。民間でなく行政である。燦然と輝いて他を圧倒しているように感じられた。
ネットで芸術祭のサイトを検索してみると、アート、エンターテイメントの部門はよくわからなかったが、アニメ、マンガ部門では、世の中の有名実力作家が全員名を連ねているように見えて、ほんとうにびっくりしたものであった。・・・これは、ほんとうにコンクールなのか? と疑ったものである。つまり、受賞してあたりまえと思われる宮崎駿作品やガンダム作品が出品受賞しているのである。また漫画作品でも単行本化されてベストセラーを記録しているものも受賞している。
これは、とんでもなく競争率の高いコンクールで、自主制作のカテゴリーとはいいながら池田ハル氏の名前が出ているのは凄いことだと思った。
そして、その後、私の作品が第12回、13回の芸術祭で推薦作品に選ばれたのは、まさに奇跡のようであった。
第12回にいがたマンガ大賞で、私の作品が最優秀作品賞、魔夜峰央賞に選ばれたのは漫画家しらいしみぐ氏の存在が大きかった。氏は商業漫画雑誌で4コマ漫画で活躍していたが、氏とは15年程まえ、ある知人を通じて知り合い、何度か酒を飲んだり、食事をしたりカラオケをしたりして遊んだ仲であった。
ある日、その氏の名前をなにかのおりにネットで検索してみたことがあった。すると、にいがたマンガ大賞の名称と共に氏の名前が出てきたのである。そこでは氏は、ひとコマ漫画が入選していたのであった。
そう云う検索をしてから1年程がすぎたある日、私は俄かに「にいがたマンガ大賞」を思いだした。併し、そのときは既に作品応募締切1週間前を切っていた。
丁度そのとき私は出来上がった漫画原稿が出版社に売れずに困却していた。苦肉の策のように賞金欲しさも手伝って駆け込み出品してみたのである。
念ずれば通じるのか、またしても運よく受賞となったのである。受賞作は「パラソルの微風」で、この作品には苦難の紆余曲折があり、ようやく公の場所に出られたのであった。